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このページでは、わたくし刃連じろうが描く日本の城の絵を公開しております。 |
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最新鋭なのに謎だらけ
備後福山城 天守
広島県福山市にある福山城の天守、比較的新しい五重天守で、創建は城もろとも元和8年 (1622年)、水野勝成によるものです。五重五階穴藏一階。福山空襲で焼失するまで旧制(国宝保存法)の国宝に指定されていたにもかかわらず、詳細な資料が少なく、未だに多くの不明な点を残しています。 ![]() 国立公文書館デジタルアーカイブス 正保城絵図 備後福山城図より 天守部分描写 |
元和八年図
制作年 :平成30年9月8日 |
正保年図 制作年:平成30年9月16日 |
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徳川と豊臣の天守
越前福井城 天守 福井県福井市にある福井城の天守。 |
北東鳥瞰図 制作年:平成30年10月27日 |
北西隔濠図 制作年:平成30年11月5日 |
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立ち木に包まれた謎の巨大天守 筑後柳川城 天守 福岡県柳川市にある柳川城。田中吉政による慶長6年創建の巨大天守がそびえていた平城です。 柳川城の天守は五重五階。付櫓が北側に取付く複合式天守です。明治の古写真では、南から撮影したものが一枚のみ確認されていますが、あいにく平側の一部が写っておらず、詳細不明です。天守台の実測記録から、望楼型、層塔型両面で復元が可能で、このイラストでは両面を違う角度で描くことを試みました。なお、天守の初重壁際に二階へ上る階段が設置されていることから、初重と二重目平面が同大か東西だけを逓減させる構造であったと推察し、左のようなイラストとなりました。 |
層塔説坤之図 制作年:平成30年12月17日 大きさ(枠線内):縦249×179mm 画材:鉛筆 基底材:画用紙 所有:作者 初重または二重目の屋根を入母屋としていない層塔型です。ただし、これを層塔型と呼んでよいものかも、少し悩みどころではあります。 |
望楼説艮之図 制作年:平成31年4月20日 大きさ(枠線内):縦249×179mm 画材:鉛筆 基底材:画用紙 所有:作者 二重目に大入母屋とした望楼型です。 層塔型であっても、望楼型であっても、松江城天守の破風が多く取付いたと考えられている創建当時のものや彦根城天守と同系統の天守と思われます。 |
![]() 佐伯城南新御殿天祐館御三階之圖 (御三階拾分壹之図より) 制作年:令和元年6月16日 大きさ(枠線内):無測定 画材:鉛筆 基底材:画用紙 所有:不明(佐伯史談会佐藤巧会長へ寄贈) |
数年前に『佐伯史談』で見かけた、古庄豊先生の「鶴谷城の原状想像図について」という記事で佐伯藩の御用大工だった吉田家で「五層の天守閣はありますけれど」という吉田家所蔵の天守建地割図と思われる絵図の証言があり、それを求めて佐伯史談会の会長・佐藤巧さんへお尋ねの手紙をしたためたことがございました。このイラストは、会長よりのお返事に幾つか添付してくださっていた資料の一つにあった「御三階拾分壹之図」と題する一葉を基にして、お返しとして描かせていただいたものです。 御三階は、南新御殿に増築された寄棟造り三階建の楼閣建築で、屋根は銅板葺と見えます。一階部分の構造が詳らかではないため、得体のしれない立方体を埋め込むように描き入れています。一階部分の側柱には沓石を敷いており、この部分が外部であることを示しています。この辺りは、どことなく擬似洋風のテラスを思わせますね。 追記:古庄豊先生の寄稿文は、昭和13年刊の『花すみれ』という佐伯高等女学校校友会誌から、1981年の佐伯史談bP27に転載されたものです。この図は、佐伯史談会の佐藤巧会長からいただいた吉田家絵図群写真の内、「御三階拾分壹之図」と題された一葉をもとにイラスト化したものです。 |
どこか洋風な幕末の御三階
大分県佐伯市にある佐伯城は、毛利友重(毛利高政)が八幡山の山頂に慶長七年(1602年)から築城し始め、慶長十一年ごろに完成させた山城です。江戸時代に入ってから築かれた新規の山城としても知られます。山頂には、三重天守や複数の櫓が聳え、威容を誇っていましたが、江戸時代の初めごろ、一説には元和三年(1617年)に焼失したと考えられています。具体的な資料が見つかっていないため、創建当時の建物の構造等についてはわかっていません。今回、佐伯史談会の会長佐藤さんより天祐館御三階の絵図を撮影した写真のコピーをいただいたことでこのようにイラスト化を試みました。豊後 佐伯城 天祐館御三階 |
![]() 米子城大天守並天守圖
制作年:令和元年11月3日 大きさ(枠線内):縦240×190mm 画材:鉛筆 基底材:画用紙 所有:作者 |
大天守は、一見して古風に見えますがシンメトリックな外観が新しい建築を思わせます。最上階の造りはおそらく雨戸の戸板を立てる形式の内縁望楼ですが、雨戸を収納する戸袋があったかどうかは判りませんでした。その下層は、従来説ですと袴腰の壁面をなしていたと考えられていましたが、古写真をよく見ると屈折しており、何らかの構造物を覆っているかのような、折れ袴腰というべきか、奇妙な形状をしていたと見えます。 次に四重櫓ですが、平面形状が大変いびつで、南側(妻側の唐破風のついてある方)が斜めに切れているようになっています。実は、この平面は線対称の台形の北側が片手落ちしたようになっており、計画的なものである可能性が考えられます。次に、三重目の平面については「地差圖」に書き込まれた方角に合わせるのではなく、建地割圖の姿と地差圖の床伏せ・梁伏せに注目しました。このことから、東は入母屋出張、西は千鳥破風というやや奇妙な姿で描かれました。さらに最上階は、三重目より出る唐造りとしてイラスト化しました。破風で埋もれているためあまり目立ちませんが、これも唐造りの例といえるでしょう。 |
屈折した袴腰と隠れた唐造り 伯耆米子城 天守 (大天守・四重櫓) 鳥取県米子市にある米子城。毛利輝元家臣・吉川広家が築城するも、完成する間もなく毛利家転封と同時に岩国へと移封。その後入封した、中村一氏によって大天守が上げられたようです。その後、江戸時代を通じて因州池田氏鳥取城の支城として特別に存続した城であります。吉川広家が上げた三重四階の古天守に三重五階の大天守を加えた威容は、支城とは思えない規模ですね。 大天守の詳細については不鮮明な古写真が2枚と、幾つかの絵図しかなく、詳細が詳らかでありません。古天守(四重櫓)については、地差圖(平面図)と建地割圖(立面軸組圖)が残されているため、大方の軸組復元が可能ではありますが、外観については古写真が残っておらず不詳です。 そこで私は、大天守は古写真を、四重櫓は指図を基に復元イメージの作成を試みました。そして、今までにない米子城天守の姿が浮かび上がったのです。 |
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天守乾之圖 大きさ(枠線内):縦244×189mm 制作年:令和2年3月15日 画材:鉛筆 基底材:画用紙 所有:不明(二階堂酒造様へ寄贈) 全体がその形で逓減していったか、中重の段階で矩形にしたのかはっきりしたことはいえませんが、明治3年実測、嘉永元年の記録から、初重から中重の逓減率が中重から上重の逓減率に比べて非常に大きくなっていることからも、忠興公の小倉城天守と同様の構法が取り入れられているものと推察されます。 |
豊前小倉城につながる層塔型天守の先駆け 豊後日出城 天守 大分県速水郡日出町にある日出城。豊臣朝臣羽柴秀吉公の妻・北政所(お禰)の甥、木下延俊公が細川忠興の援助を受けて築かれた城です。慶長七年(1602年)に竣工した天守は三重三階。構造は層塔型と考えられています。平面形状は、大変歪んだひし形で、これまでにない日出城がイラスト化されました。 なお、こちらの絵は二階堂酒造様へ誠に勝手ながら、ファンレターとともに贈らせていただきました。 |
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三尊圖 大きさ(枠線内):縦360×幅800mm 制作年:令和2年10月10日 画材:顔彩 基底材:画用紙 所有:匿名(個人様へ寄贈) 広島城の大天守は、一階層ごとに床構造を底上げして高く聳立するように設計されています。大天守の屋根は城郭建築としては室町期の主殿建築のごとき緩い勾配をなし、軒反りも緩やかです。天高く見える設計された分の重量感が、この屋根構造によって非常に軽やかな印象を与えているように見えますね。 小天守については、東小天守について部分ですが写り込んでいる古写真があり、大まかですがその構造を想像することが可能な状態となっています。正保城絵図の小天守外観はオーソドックスな三重櫓に描かれていますが、古写真を解析したところ、一般の伝統的な城郭建築の前例と当てはめると、説明がつかない部分がいくつも現れました。この結果として、このような一般的でないでない姿として今回実験的にイラスト化されました。 |
一度は抱かれてみたい天守群 安芸廣島城 天守 広島県広島市にある広島城。毛利元就によって築城され、毛利輝元や毛利氏転封後の福島正則、浅野長晟などによって改築が行われた平城です。 天守は本丸北西隅の大天守が五重五階。東小天守と南小天守がそれぞれ三重三階。何れも大廊下という渡櫓によって結ばれていました。 明治以降、小天守は徐々に解体されましたが、大天守と大廊下の一部は解体をまぬかれ、昭和二十年の原子爆弾で粉々になるまで、古式を伝える大天守の一つとして残っていました。 |
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北へ偏った白亜の古式天守 三河岡崎城 天守 愛知県岡崎市にある岡崎城。徳川家康公生誕の城として知られています。そのころの天守ではありませんが、元和三年に築かれた天守が明治まで現存し、写真に収められています。現在建つ復興天守は、一見して古写真に忠実な再現に見えますが、古写真を分析するとどうやら復興天守のような整った形ではなかったと見られ、今回はこのような姿にイラスト化を試みました。また、天守台の縄張だけに注目すると、北西へ鉤型の腰曲輪を巡らせており、どこか豊臣大坂城を思わせる造りです。関連は不明ですが、興味をそそられます。 |
岡崎城天守巽之圖 制作年:令和3年6月27日 大きさ(枠線内):未採寸 画材:顔彩 基底材:画用紙 所有:作者 過去の藤岡博士の論文などを参考に、天守台の礎石の位置や西側から撮影した古写真から、二重以上が北に寄った形であったと推察しました。上ノ重の唐破風については、勾配が緩めであるため、姫路城などで見られるような軒の一部を変形させる形状のものを採用しました。附櫓については、古写真にも映っていないため、すでに取り壊されたか、早い段階で失われていたと見え、また記録が少ないため推定が多くを占めています。井戸櫓については、古写真から凡その大きさや造りが判明したため、より写真に近い形状に描くことができたのではないかと思います。壁仕上については、古写真の映り方、漆喰の剥落状態からみて月見櫓と同様の長押形を施した白漆喰総塗籠の白い天守であった可能性があります。その一方で、少数例ですが絵図の描かれ方について板張りの描写があるものがみられることから、板張りであった可能性も十分考えられます。しかし、今回は実験的に白い天守として描きました。 |
岡崎城天守乾之圖 制作年:令和3年8月2日 大きさ(枠線内):未採寸 画材:顔彩 基底材:画用紙 所有:作者 乾・北西の方角から仰ぎ見た姿。天守北面、廊下橋、天守腰曲輪がどのようになっていたかを描いたものです。天守初重屋根の形状は、既存の説ではどちらも大入母屋とするものがほとんどですが、西からの古写真では上重が北に寄っているようであることから、今回私は南面のみ大入母屋の片入母屋としました。小さな入母屋を付けましたが、比翼になっていた可能性も考えられます。また、面白いことに軒が西の平側から北にかけて切れ上りが見られることから、そのような表現も加えてみました。この様な形状にした理由は、北と南で屋根形状が異なることから、それを収めるためのものと察します。 |
絵はがき |
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熊本城(令和三年年賀状) 資料なしで炬燵で描いた類のものなので、構図や姿は正確ではありませんが、熊本城に見えるかなと言う程度のものです。 |
肥前名護屋城(令和三年年賀状) 最上階平面は 2間×3間と小さく。屏風絵も2間×3間で描かれています。豊後府内城の天守上重がその大きさなのも、名護屋城をモデルにしたからなのかな?とか考えながらこの絵は描かれました。 |
豊臣大坂城(黒田本大坂夏の陣図屏風より) 思い切って徳川式天守に。黒田屏風の大坂城天守はなぜこんなに写実的なのか、それを考えると実際に最も近い姿なのではないかと。結城秀康は秀吉のこの天守をモデルに福井城の天守を建てた…という物語付きです。ベートーベンの第九を聴きつつ描きあがった大変めでたい一枚となりました。 |
落書き |
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高崎城御三階櫓 (ペン画・顔彩彩色) 元は、令和4年の年賀状はがきのイラスト用に下書きしていたものです。 古写真を見ると、長押や破風板、軒が黒く映っていようで、それだけでも印象がだいぶ違うかと。 |
安土城天主の想像 (ボールペン画・スケッチブック) 信長公が安土城に移った日に合わせて描いたもので、特に根拠なんかはありませんが、愚子見記にある二重石垣という記述を基にイラスト化したものです。比翼破風は、雨だれ対策に付けられたものという設定。 |
犬山城天守創建当時の想像 (鉛筆画・スケッチブック) 犬山城の天守がもっとも古い可能性が出てきたというツイッター上での話題から調べていくうちに、ツイッターのフォロワーさんから色々ヒントをいただいて、もしかしたらこんな形だったのではないだろうか、という妄想をイラスト化したものです。 手前は殿屋ひしめく本丸で、天守とは廊下で結ばれていたのだろうと。 |
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島原城 (鉛筆画・スケッチブック) 普請方記録を基にした超巨大天守の絵です。高さ31.36メートル、建物だけで比較して姫路城の大天守に匹敵する高さ。天守台が約6メートルで天守建屋は25.9メートルだった可能性も考えられますが、初重の広さと十七間一尺五寸という高さとで鑑みると、ちょっと違うのではないかなと思い、このようになりました。最上階の造りは、絵図から戸板囲いの雪打造です。 |
落書き(創作) 心象風景 |
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大手門 (ボールペン画) 寝る前に描いた絵です。特にテーマがあったわけではないですが、何か描きたくなって描いたものです。 |
枡形門と橋 (ボールペン画) たまに描きたくなる擬宝珠欄干の太鼓橋と門です。高麗門と櫓門と二重櫓のセット。 |
天守(大阪城天守閣風) (ボールペン画) 大阪城天守閣(昭和6年)のような有名なお城の天守閣のイメージをモデルに、ありそうな天守を適当に描いたものです。大阪城天守閣を見ながら描いたわけではありません。 |
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城 (ボールペン・A4コピー用紙) 「しんゆう」さんという同じくお城のイラストを描かれる方がおられるのですが、家紋の描き方を応用した平坦でほっこりするようなデザイン的な図法に惹かれて、私も似たような絵を描いてみた、というものです。尤も、私も同じような建物山盛りのお城は幾つか描いたことがあって、そのシンパシーからこういう絵を描いてみたというのもあります。 内訳は、コンパスで凡そ真円を描いて、その上に沿って建物を描いただけ。 完全にファンタジーの世界ですが、ちゃんと構造的にあり得るか、という事も考えながら描いています。A4のコピー用紙に描いてしまったのが悔やまれます(;^ω^) |
No picture 画像がない所に貼るために描いたものです。猫は駄洒落です。 |
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